ここ数年個人的にとても影響を受けている知の巨匠に南方熊楠(みなかたくまぐす)さんがいます。
南方熊楠さんの凄さを一言で表すことはとても出来ませんが、ウィキペディアから抜粋すると、
南方熊楠は1867年に和歌山県に生まれ、東京での学生生活の後に渡米、さらにイギリスに渡って大英博物館で研究を進めた。多くの論文を著し、国内外で大学者として名を知られたが、生涯を在野で過ごした。熊楠の学問大系は博物学、民俗学、人類学、植物学、生態学などさまざまな分野に及んでおり、その学風は、ひとつの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、書斎や那智山中にこもっていそしんだ研究からは、曼陀羅にもなぞらえられる知識の網が生まれた。
1893年(明治25年)のイギリス滞在時に、科学雑誌『ネイチャー』誌上での星座に関する質問に答えた「東洋の星座」を発表した。また大英博物館の閲覧室において「ロンドン抜書」と呼ばれる9言語の書籍の筆写からなるノートを作成し、人類学・考古学・宗教学などを独学した。さらに世界各地で発見、採集した地衣・菌類や、科学史・民俗学・人類学に関する英文論考を、『ネイチャー』と『ノート・アンド・クエリーズ(英語版)』に次々と寄稿した。生涯で『ネイチャー』誌に51本の論文が掲載されており、これは現在に至るまで単著としては歴代の最高記録であるとされている。
英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。柳田國男にして「日本人の可能性の極限」と称される。
ここで紹介できたのは、南方さんの本当にごく一部でしかありませんが、私が彼のことを最も凄いなと思うのは、彼こそ、生涯やりたいことだけをやり抜いた究極の人だと思うからです。
彼は一生涯所謂就職ということをしたことがなく、また名誉やお金にも興味がなく、ただただ知識欲を満たすためだけに生きた男だと言えます。
彼のことをこのブログで書くことは、彼の偉大さを考えると躊躇してしまいますが、機会があったら、南方曼陀羅や、やりあてなど彼独自の思想や発見をまた紹介してみたいと思います。
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